Oさんの臍帯血移植の体験

 まず「急性リンパ性白血病及び悪性リンパ腫」を患い、私がさい帯血移植を行ったのはもう5年半前(本文は平成2012月執筆)になります。しかしその後の飛躍的な医学の進歩にもかかわらず未だ、多くの方が血液の病気で苦しむ現状は大変残念なことであり、1人でも多くの方が過酷な闘病の苦しみから解放される日が訪れることを祈るばかりです。以下に私の闘病体験を記載させていただきます。少しでもお役に立つことになれば幸いです。


 治療選択の経緯ですがまず、医師からは第1の選択肢として兄弟や親族からの骨髄移植が提示されましたが、白血球の型が合う者がおりませんでした。従って、第2の選択肢である抗がん剤治療で闘病することとしました。このとき第3の選択肢として骨髄バンクのドナー(*1)からの骨髄移植もある旨、医師から説明を受けましたが、GVHD*2)などの副作用のリスクが大きいことから抗がん剤治療を選択しました。

(*1 骨髄バンク登録者)

(*2 移植により発生してくる細胞と既存の細胞との間で起こる拒絶反応による身体への影響の総称。その影響は患者によっていろいろな症状として現れるがよく起こるものは皮膚、消化管、肝臓の障害)

(1)

病気の詳細とさい帯血移植を選択した経緯について

 

初回の発病について

病名:悪性リンパ腫及び急性リンパ性白血病(医師からは併発するケースが多いとの説明を受けました)

発病時期:2001年5月

発症年齢:25歳と1ヵ月

治療方法:抗がん剤(9回)による治療

 

再発時のさい帯血移植選択の経緯について

再発時期:2003年1月

発症年齢:26歳9ヶ月


 再発の時点では既に職場復帰して1年が経過していました。心身ともに充実した会社生活を送っていた時期の告知であり「生存率の低い再発患者となったこと」、「骨髄移植以外に完治方法の事例が極めて少ない」という現実が襲ってきたことは、非常に悲しい出来事でした。


 しかしその一方で、再発という事態もあるということは理解していましたので、1回目の告知よりは比較的冷静でいられたと思います。また、この告知の時点でさい帯血移植という選択肢もあることは私も予備知識としてもっており、医師にもそのリスクなどを聞きました。その回答としては 「子供の患者への適用事例はあるが、大人への適用事例が極めて少なく予後のリスクが不透明である。」 ということで、骨髄移植の道を探ることになりました。しかし、ちょうど「寛解(*3)」に向けた抗がん剤治療時に私の白血球の方に合うドナーを見つけることができませんでした。そこで、完治を目指すための治療として当時としては稀な「さい帯血移植」を選択せざるを得ませんでした。

(*3 ガン化した白血球が医学的に定められた一定数を下回った状態)

(2)さい帯血移植時の出来事

 

移植前について

 上記に記載のとおり「寛解」に向けた抗がん剤治療時は、副作用として共通的に起こる吐き気、食欲不振はありましたが比較的「寛解」にはスムーズに到達しました。ちょうどその時期がゴールデンウイークであったので外泊許可を長めにいただき、友人と食事するなどくつろいだ日々を過ごし、さい帯血移植に望むことになりました。


 まず移植病棟での生活における注意事項を看護師より説明を受けます。その後放射線治療を行いました。ここまではスムーズに進みましたが、移植の直前に飲む「ブスルファン」という薬による吐き気は今までにない激しいもので3日ほど非常に苦しみました。それが治まった5月23日に小さな注射で私に「さい帯血」が注入されました。

 

移植後について

 移植後3日間は、ほとんど副作用も出ず、普通の人と変わらず洗濯まで自身でこなしていました。しかし、4日後に放射線治療の副作用で喉および食道粘膜がはがれてしまい唾を飲み込むときに激痛が走りました。そのため流動食もまともに食べられず、結局点滴だけで3日間を過ごす事態になりました。また原因不明の下痢の症状も激しくなり覚悟している範囲内であったとはいえ、これは今までにない苦しい経験でした。その後下痢は引き続きあったものの、喉および食道粘膜の痛みも和らぎ若干の発熱もありましたが、順調に生着(*4)にもたどり着きました。生着にいたったその日に退院の日程も告げられ意外とあっさりといくものだなと感じたものでした。しかし好事魔多し、その後容態が急変します。

(*4 新しく移植されたさい帯血が患者の体内で新しい血液を作り出すことが可能になること)


 退院の話があった次の日、感染症とGVHDの影響で腸管粘膜がすべてはがれるという事態が襲ってきました。腸で水分が吸収できないため、下痢の症状がさらにひどくなりほとんど水のような下痢が頻繁に襲ってきてベッドの上にいる時間よりトイレにいる時間のほうがはるかに長く、また排便時の痛みは想像をはるかに超えた痛みでこれは退院するまでの2ヶ月近い間苦しむことになりました。モルヒネによる痛み緩和でどうにかしのぐことができたのだと思います。


 また、いろいろな箇所の粘膜が弱くなっていたため排尿時に極度の痛みを伴う膀胱炎や、腸で消化できない水分が足にたまり足が大きく膨らみ皮膚が破け、歩行困難やお風呂に入る瞬間の激痛に向き合うこととなりました。非常に感染症をもらいやすい体質にもなっていたため発熱も頻繁に起こり、特に急な発熱時には突如意識を失ったこともありました。看護師の方の迅速で適切な対応がなければ本当に危険な容態になってしまったことでしょう。さい帯血移植は比較的GVHDが少ないというのが、私の予備知識の中にありましたが、移植後の2ヶ月は骨髄移植の患者でもあまり例を見ないという厳しいGVHDによる苦しみを体験することになってしまいました。そしてがんセンターでは通常よりはるかに長い移植病棟で2ヵ月半の入院生活となってしまいました。


 退院後は実家で生活することになりましたが、足のむくみや下痢は引き続き起こり急な発熱などが起きた場合、医師も看護師もいないこの状況でどのようになってしまうのかという不安もありました。しかし当初のGVHDや感染症による苦しみが激しかったせいか運のいいことにGVHDの影響は徐々に弱まり、感染症に侵されることもなく翌年2月には会社に復帰することができました。

(3)さい帯血移植を経験して

 これまでは、移植の過程で起きた事実をありのままに記載しましたが、最後に精神的な面での私の変化と医師、看護師、家族、同病の方、親類、友人、会社の上司や同僚などとのやり取りについて記載させていただきます。

 まず、死へのリスクは初回の発病時の抗がん剤治療より明らかに医学的に未知の領域が広いさい帯血移植のほうが高く、また肉体的な苦痛もはるかに厳しかったことは事実です。しかし闘病開始からの7年半を振り返ると精神的な面では初回発病時の抗がん剤治療のほうがつらかったように感じます。それは、全くの健康人から悪性リンパ腫の患者になったことで死が現実のものとして急に襲ってきたことに起因するものだと考えています。


 肉体的な苦しみはもちろん「自分だけがなぜ」「死とはどういうものなのか」「もし治ったとしてもまた再発して苦しむ無間地獄ではないか」といった精神的な不安に向き合う孤独な日々でした。しかし、さい帯血の治療は予備知識があったことおよび治療の一過程として捉えられる準備ができていました。従って私の場合、精神面から見てどちらがより未知の世界であったかというとそれは初回の治療になります。さい帯血移植時は、日々の肉体的な痛みにどう向き合うか、情緒不安定にならないようにするにはどのようにするかをただひたすら考え、行動し、時が過ぎていったというのが率直な感想です。





 そして私の治療に携わってくださった方々との関係ですが、医師、看護師とは非常に強い信頼関係を築くことができました。それは非常に技量的にも組織的にも洗練された医療チームであったこと、そして何とか若い私を救ってあげたいという情熱や使命感を医療チームの方々から日々感じることができたためです。従って私は、自分自身でどうしても決断しなくてはいけない治療方針の決断以外はすべて任せていましたし、この医療チームでだめなら仕方がないと覚悟を決めることができました。


 次に家族の存在ですが、父と母は毎日自分のことを犠牲にして私のために時間を費やしてくれました。血液のがんは他のがんと違い治療に長い時間を要します。その過程で本来病気を治すために病院で治療するわけですが、苦しい治療の日々が続くと「こんなに苦しい治療を続けるならいっそのこと死を選択したい」という自己矛盾を起こすこともしばしばありました。しかし毎日遠くから様子を見に来てくれる両親の顔をみると「妹1人残して親より先に死ぬわけにはいかない」という闘争心が自然とわいてきました。


 同病の方からは、会話の中で副作用軽減に向けたアイデアやその他、闘病生活時のいろいろなヒントを頂くと同時に、お互い励ましあうことで自分も負けずに何とか踏ん張らねばという気持ちになることが出来ました。また病気から回復された方からは「同じように自分も社会生活を送ることができるようになる。」という夢の実現が可能であることを示していただき、それがどれだけ励みになったかは計り知れません。


 親類、友人、会社の上司や同僚にも本当に多くの励ましをもらいました。不満や不安を漏らすことも多々ありましたが、じっと受け止めていただけました。これには本当に助けられました。また「健康な人間が病気の人間の気持ちを理解することは難しい」「頑張れとはとても言えない」という謙虚な気持ちで私に接してくれていた方が多く、いろいろ考えて発言してくれたのでしょう。励まされたり、病気を忘れさせてくれる時間を作ってくれたりすることはあれ、不快に思った行動や発言はなかったと記憶しています。





 私は基本的にねあか人間ですが小心で人一倍不安に駆られることも多いほうではないかと思います。そういう人間であるにもかかわらず、厳しい治療の中でも時々「何か大きな力」を背中に感じることがあり、それが孤独や不安から開放し安心感を与えてくれました。闘病中、私はよく三浦綾子さんの本を読んでいました。その中に「虚無の隣に神はいる」という一説があります。まさにその神が「何か大きな力」であり、それは私に対するいろいろな方の「温かい心の結集」であったのではないかと最近感じています。


 現在、私は会社では営業現場で働いています。風邪を引きやすいことやドライアイなどの症状はいまだ残りますが、普通の社会人と同様に社会で生活しています。血液の病気のため、気力体力が最も充実し、自身の人生を大きく飛躍させることができる貴重な20代後半から30代前半のほとんどを闘病に費やすことになり、ずいぶんと社会人として遠回りしてしまいました。しかしこの遠回りは決して無駄ではなく、仕事ができることや普通の社会生活を送れるありがたさを感じることができようになりました。また私自身の人生の目的意識をはっきりとさせてくれた貴重な時間でした。病気にひとつのピリオドを打つことができた今、再度多くの方に感謝するとともに、自分の限界に挑戦し続けていきたいと強く感じる日々を送れることを、大変幸せに感じています。





 末筆ながら、繰り返しになりますが、1人でも多くの方が血液の病気から解放される日が来ることを強く祈っております。平成20年12月11日